ざっくり歴史講座「忌部とは?」

ざっくり歴史講座「忌部とは?」

今週末の10月7日(日)に開催される

第13回吉野川コレクション
忌部・麁服の里 in Yoshinogawa

の開催が迫ってきました。しかし、またもや台風が・・・。

気象庁のホームページでは7日の日曜日には東北地方に抜けている感じ。開演は午後1時30分からなので開催できそうです。今のところは・・・。

当日までにいろいろと準備をしてきたので、

中止なんかいやだ!

というのが本音ですが、台風には勝てません。来場者の安全を一番に考え、週末の天気に注意していきたいと思います。

鴨島公民館での歴史講座やイベントなどでたびたび目にする「忌部」という言葉。私の中ではおなじみとなりましたが、読めない・知らない方もいるのではないでしょうか。そこでこの週末の吉野川コレクションのPRのため今回はこんな企画をご用意しました。

題して

私自身、鴨島公民館で知り得た「忌部」について、知らない人のためにざっくりした説明ではありますが書いていきます。また、読み方のわからない言葉がでてきますので「ふりがな」満載でお届けします。

詳細は今週末のイベント「忌部・麁服の里」でより詳しい講演会が開催されますので、是非お越しください。

 

忌部とは

 

忌部と書いて「いんべ」と読みます。ではまずこの「忌部」とはどういう意味を指すのでしょうか。

忌部とは穢れ(けがれ)を忌み(いみ)清める集団という意味があるそうです。忌部は、古代よりヤマト王権の祭祀を担当していた名門氏族あったので「忌部氏」とも表記されています。

忌部氏は祭祀(さいし)を担当していたので祭具などを調達していました。祭祀とは神々や祖先をまつる祭典やお祭りだと思ってください。忌部という意味がなんとなくわかっていただけたでしょうか。このことをふまえて「阿波忌部」の意味を説明していきます。

 

阿波忌部とは

 

阿波忌部(あわいんべ)とはどういう意味を指すのでしょうか。鴨島公民館で歴史講座やイベントでの講演などでお世話になっている林 博章先生。林先生の研究による考察によると、この徳島には弥生時代後半から古墳時代の前期にかけ、吉野川流域を中心に勢力を展開していた集団がいたとかんがえられています。この集団を「阿波勢力」と称しましょう。

この阿波勢力が海部(あまべ)と協力し、この阿波(徳島)の地域を開拓していったとされています。海部は阿波勢力と同じかんじで海部勢力だと思ってください。海部と協力し、阿波を開拓した阿波勢力は2世紀後半から4世紀頃に日本各地に進出。ヤマト王権の成立に大きな影響を与えたと考えられています。

この阿波勢力がのちに阿波忌部とよばれることとなります。この阿波忌部がこの阿波の地を開拓するときに麻(あさ)を植えて、この地を開拓したことにより「麻植」(おえ)の名前が生まれました。

この麻という漢字。徳島県ではよく目にしませんか?言葉でなく文字にした場合、いろいろと目にしていると思います。吉野川市の合併前は「麻植郡」でしたね。「麻(あさ)を植える(うえる)郡」と書いて麻植郡。鴨島には「麻植塚」(おえづか)とい地名や駅名、向麻山(こうのやま)などがあります。

そして阿波忌部のゆかりの地とされている鳴門市では大麻町や大麻山、大麻比古神社などがあります。

また、阿波忌部は農業・養蚕・織物・製紙・音楽(弦楽器)・建築・漁業・農業土木技術などを伝えた技術集団であったとも考えられています。阿波忌部と呼ばれていることから冒頭の「忌部」が指す意味を考えると祭祀に関わっていることがわかってきますね。

この祭祀の1つが現在にも引き継がれているのです。それが今回の吉野川コレクションにも関係してくる「大嘗祭」というワードに繋がっていきます。

 

大嘗祭とは

 

大嘗祭(だいじょうさい)とは皇位継承儀礼の1つ。皇位継承、すなわち新たな天皇が即位する時に行われる祭祀です。昔は「おおにえのまつり」、または単に「おおにえ」と呼ばれていたそうです。大嘗祭は農耕儀礼を母体として、天皇が即位して最初の「新嘗祭」(にいなめさい)のこと。

新嘗祭とは、収穫された新穀(稲穂)を神前に献上して感謝の念を捧げ、これを神様(自然)からの贈りものとして食します。神と人が共に飲食をすることから「神人共食」(しんじんきょうしょく)という儀式とも呼ばれています。

この大嘗祭が来年の11月14、15日に挙行される予定となっております。大嘗祭の挙行にあたりこの徳島の地から麁服(あらたえ)が調進されます。

麁服は簡単に説明すると「大麻の織物」のこと。代々阿波忌部が調進してきたとされています。その阿波忌部直系である三木信夫氏が「忌部・麁服の里」と題し、ご講演いただきます。

三木家は阿波忌部氏直系としての忌部氏であって、上古(じょうこ)以来歴代の践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に御殿人(みあらかんど)として麁服を調進して朝廷と深いつながりを持っていました。

麁服調進は、南北朝動乱に至り、以降中断していましたが、復活して大正・昭和の大嘗祭にその任を果たしました。三木さんは今上天皇の大嘗祭の時にもその大役をはたされています。

今回の吉野川コレクションでは忌部や大嘗祭、麁服調進についての貴重な話が聞けることと思います。入場は無料となっておりますので、興味のある方はぜひ、参加してください。

 

編集後記

 

忌部をしらない人にむけてのざっくりとした内容ではありますが、なんとなくわかっていただけたでしょうか。歴史は過去の文献を基に考察し、いろいろな説があると思います。

しかし歴史は新たな解釈や発見によって今まで習ってきたことなど吹っ飛んでしまうほど変わることも。私が子どもの頃は1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉幕府を開いたとされていたので「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」と覚えたものです。

しかし今では1185年の説が有力な考え方とされ「イイハコ(1185)作ろう鎌倉幕府」に変わっていますね。1192年に征夷大将軍に任命されたのは変わっていませんが、1185年に守護・地頭が設置できるようになったことで、実質的な支配権を得たと考えられるようになったためだそうです。

歴史を学ぶことにおいて「これが絶対正しいんだ」と考えるのではなく、「こんな可能性もあったのか」とか「こういう解釈なんだな」と思った方が楽しいと思います。歴史ってロマンだと思うので。

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