今年で終わる伝統芸能の祭典

今年で終わる伝統芸能の祭典

吉野川市の菊花展が始まっています。同時に鴨島公民館では菊づくり教室菊花展も開催中。菊の花が次々と咲き始めています。

看板も設置。

朝日があたるからでしょうか。手前の菊が次々咲いてます。

懸崖も咲き始めました。去年より早いです。

先生と受講生の手作りの菊人形も今朝到着。

あとはクッション菊やスプレー菊を数鉢足せば完成となります。来週開催される吉野川市文化祭と伝統芸能の祭典の時にはもっと咲いているかな。

そして吉野川市伝統芸能の祭典は今年の第10回をもって終了となります。一堂に会する機会はなくなりますが、各団体とも地元でのお祭りなどまだまだ活動は続いていきます。そこで、吉野川市伝統芸能の祭典に関係する団体だけにはなりますが、ご紹介したいと思います。

 

森藤獅子舞保存会

 

「森藤獅子舞」は、今から200年ほど前(文政年間)に始まったと言われています。

獅子舞は雌雄一対で演じ、「サッサ」「マチ」「曲」「見合い」「打ち切り」の5演目あります。また、獅子舞の演技の合間に彩りとして、主に子ども達が踊る「傘おどり」「二十四孝」(にじゅうしこう)があります。獅子舞は、どの演目も夫婦獅子が勇壮に舞いながら邪気を払い、ときには愛情豊かにじゃれ合いながら子孫繁栄を祈願します。

傘踊りは、和傘を使って踊ることから「雨乞いの踊り」と思われます。また、二十四孝は中国の故事「孟宗」の親孝行(真冬に病の母親のため雪の中、筍を探しに出る)の話をなぞって踊られます。

森山獅子舞は主に地元の森藤八幡神社の秋祭りに奉納されていましたが、昭和40年頃、若者の都市への流失により一時奉納が途絶えていました。昭和48年に地域の青年団が中心となり復活させ、それを機に鴨島町(現吉野川市)の無形民俗文化財第1号に指定され、現在に至っています。

今では、秋祭りの他、地域の施設への訪問や阿波十郎兵衛屋敷への出演、西祖谷の重末八幡獅子太鼓との共演、美馬市和傘製作集団との交流など他の伝統文化との交流に取り組み、森藤獅子舞の普及に努めています。また、地元森山小学校に講師として出向き、伝統芸能の体験学習を通して、後継者づくりに努めています。

伝統芸能の祭典では森藤獅子舞保存会と森山獅子舞クラブ、森山小学校3・4年生の皆さんも出演します。

 

牛島雲龍タタラ保存会

 

「タタラ」とは、銅や鉄を精錬するとき、鉱石を溶かすために送風する装置を言います。別名「ふいご」とも言われます。

ふいごにもたくさんの種類がありましたが、牛島雲龍組は「踏みふいご」を原型にしており、江戸時代から明治、大正時代、寺院に釣り鐘を作るときなどには、近隣からも多くのタタラ組が集まり、その技を披露したそうです。大正年間には旧鴨島町に4組の名前が残っていますが、現在は、「牛島雲龍組」だけになっています。

踏みふいごとは、土地に長さ3m60cm、幅2m程度の長方形の穴を掘り、中心に心棒(支点)を入れ、その上に踏み板を設置し、左右二手に分かれてシーソーのように交互に踏み込む送風装置です。実際の送風作業では転倒しないように、吊り下げられたロープをつかみ、必死に踏んだのでしょう。また、踏み手の足下で拍子木を激しく打って激励したようです。

時代は変わり、今では伝統芸能として伝承しています。踏み手はロープの代わりに日傘を持ち拍子木の代わりには、子どもにザイを持たせて踏み手を激励します。数人が組となり左右二手に分かれて交互に踏み続け、送風する動作をします。単純な労働ですが全員の呼吸が合わなければなりません。しかも、一度火をつけると途中で休むことが出来ません。従って、数人が交代して踏み続けます。

そこで、疲れる体を元気づけ、足踏みを揃えるために自然に歌われたのが「タタラ音頭」です。従って、タタラ音頭は共同作業のために必要とされた労働歌と言えます。音頭出し拍子木打ちザイ振りに合わせた踏み手で構成され、踏み手は各々左右に傘を持ち、子どものザイ振りは足下に向け、左右に二度ずつ振り下ろします。傘を持ち左右に分かれた踏み手の足下にご注目下さい。左右の人が交互に踏んでいるはずです。

昭和54年10月に鴨島町民俗文化財に指定されましたが、時代と共にだんだん寂しくなりました。平成15年に有志により復活。平成19年秋には東京で開催された「全国民俗芸能大会」に四国ブロックから選ばれて出演し、文化庁長官より感謝状及び記念旗を拝領しました。平成23年(2011年)徳島市で行われた「阿波芸能祭り」に参加上演させていただきました。

 

牛島東辻郷獅子舞牡丹連保存会

 

1837年(天保8年)、1846年(弘化3年)の大洪水で牛島堤防が5箇所決壊の大被害を受けました。

「時代は定かでないが東辻集落に流行り病で若い命は次々と失われ、何かの祟りと思うが集落には神社・仏閣もなく、厄払いに祈ることも出来ず、石井町高川原より獅子舞を伝授してもらい舞うことで厄を払った」と先人から話を聞いています。その後、戦前の記録はないが、戦後昭和21年南海地震の年に獅子舞を復活し、日本の復興家内安全無病息災五穀豊作を願い八幡神社に獅子舞を奉納、各家庭を周り厄払いをした記録があります。

しかし、5~6年で維持経費が続かず休眠状態。1970年(昭和50年)に復活するも再び休眠。40年余り眠り続けていたものを、4年前平成25年7月に「牛島東辻郷獅子舞保存会牡丹連」を設立し、牛島地区文化祭、吉野川市伝統芸能の祭典、八幡神社奉納獅子舞、神社落慶奉納獅子舞など、イベントに参画しています。

獅子頭(雄・雌)小太鼓2、大太鼓3、太鼓台車は当時の古いそのものです。昨年から横浜より専業農家を目指して若い夫婦と子ども2人の4名が東辻自治会に移住され、お父さんが獅子頭、3歳のお子さんが太鼓という素晴らしい後継者が生まれました。

 

山瀬廻り踊り保存会

 

廻り踊りは阿波踊りに代表される盆踊りの一系統で、現在も県内各地で行なわれています。盆踊りは本来お盆に帰ってくる死者の霊を供養する踊りから始まっていますが、その後は娯楽的な要素が主になっています。廻り踊りがいつ頃から始まったかは不明ですが、盛んになったのは江戸時代の享保年間(1716~1735)頃と言われています。

時代が変化し地域社会では少子化が進み、郷土色豊かなものが忘れがちになる中、平成22年度に伝統芸能である廻り踊りの伝承と地域の活性化を目的に公民館事業として有志が集まり、保存会がスタートしました。

その後「楽遊会」(山瀬公民館利用団体)が中核となり事業企画、メンバーの指導育成に尽力しています。現在は「夏祭り廻り踊り大会」の開催、地域の各種イベントに積極的に参加するなど楽しく且つ目的に沿った活動を続けています。

 

記事が長くなりすぎたので今日はここまで。8団体中4団体のご紹介でした。残り4団体は近日中にご紹介します。

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